表現活動と批判

公開する事のリスクと儀礼的無関心 - カナかな団首領の自転車置き場 はてなブックマーク

を読んで。

  • 主張したい何か、がある人は少々の批判に晒されても屈しない
  • 表現したい何か、がある人は少々の批評に晒されても屈しない

と思う。が、しかし、表現者の中には繊細な感受性によって身を切る思いで、または命を削る思いで表現活動をしている人がいて、作品は素晴らしいものなんだけど、その繊細さゆえに傷つきやすい、ということはあると思う。

俺はセンチメンタルカンガルー - 酷評するヤツに守ってもらいたいルール はてなブックマーク

↑の記事に関連する話です。

で、繊細な人がネットで表現活動を行う場合は、

  1. 批判耐性をつける
    • ただし、表現者本人が強くなることで繊細さを失うかもしれない。
    • 繊細さを失うことによって作品の質が落ちる→酷評を受けるかも?
  2. 身代わり防壁をつける
    • 繊細な人の身代わりになって批判の矢面に立ってくれる人を用意する。
    • 表現者本人がネット上の評価を直接見てしまわないよう配慮すること。

というような対策が要るのかなーと思う。

近い将来、「あなたのブログ、代わりに守ります」「あなたの代わりに反論します」「月に代わってお仕置きよ」といったブログ・ガーディアンみたいな商売が成り立つかも?

でもねー、たいした根拠もなく酷評や罵倒・中傷をしてくるヤツってのは、自分は反論されないと思っているのか知らないけど、こちらから質問すると汚い捨て台詞を吐いて逃げるか黙って消えるかのどちらかなので、そんなに怖がることも傷つくこともないのになーと思う。
それでも傷ついてしまうんだよね、繊細だから。


(追記 2008/04/08 15:26)


”たいした根拠もなく酷評や罵倒・中傷をしてくるヤツ”←確かに気にしなくていい相手なんだけど、一番傷付けられやすい相手。そこがなかなかツラいとこ。// 強くなるしかないのかなと。

罵倒的ネガコメ者はスルーが一番だと思うのですが、スルーだと「俺は反論されないのだ」「俺は強い偉い」とカンチガイするかもしれないので、罵倒的ネガコメ者の発言に対して「なぜ?どうして?」と疑問を投げかけることによって彼らの発言内容をクローズアップし、彼らの吐いた言葉に彼ら自身を向き合わせてみると、オバケの正体が分かるかもしれません。
ただし、自分の言葉と対面しても自身の吐いた言葉の意味が分からず開き直ってしまうバカもいるので、開き直られた場合はスルーが良いでしょう。


企業や団体の場合は組織的にやりますね。直接自分が批判されているわけでないから冷静に対応できますし。

作家と読者の間には出版社(編集者)がいて、ある程度は緩衝材になってくれますけど、ネットの場合は筆者と読者の間に誰もいないので自衛するしかありません。そこで、身代わり防壁となる別人格を創って、ネガティブな意見はすべて別人格に読んでもらうのです。そして、参考になりそうな批判・批評だけを筆者本人へ伝える。この作業は精神力が強くないとできないので、デリケートな人には難しいと思います。
と書くと、「弱い人、繊細な人はネットで表現しないほうがいい」ってことになってしまうんですよね。プロ・アマ関係なく何かを表現する人は、作品と自分自身を切り離せるか、作品との距離をどれだけとれるか、が大事だと思います。ネットに公開する前に、自分で自分の作品を死ぬほど罵倒しておくと良いかもしれません。ホントに死んぢゃダメだけど。


(追記 2008/04/08 16:05)
リアルでも、誹謗中傷とか脅迫とか殺傷とか物理的な妨害行為をする輩はいるので(まあ、犯罪ですが)、ことさら「ネットのネガコメは問題だー!どげんかせんといかん!」と騒ぐ話でもないような気がします。いや、でも実際に傷ついて自殺する子がいるのでネット対策は必要です。
今すぐにできる対策は、傷つきやすい人はネットを見ないこと。これが最善策だと私は思います。次案は、強くなること。
却下したい案は、ネガコメ者を全員アウシュビッツに収容してぶっ殺すこと。ネガコメは害悪でしかないから、という理由で十把一絡げにネガコメ者の存在を除外・抹消しようなんて、いったいどんなファシズムだよ?

(追記おわり)