続・タブーを破ること
- 赤枕十庵さんへのお返事
たとえば、ボクの家族の誰かが自殺したがっていたとする。「自殺はよくないから自殺しないでほしい」というよりも、「キミがいなくなったらボクは悲しいから自殺しないでほしい」ってのが正直な気持ちでしょう。「キミのために忠告するけど自殺しないほうがいいよ」って自分に正直じゃないよね。「ボクのために死なないでくれ」ってことでしょ。ある意味エゴですよ。
「キミがいなくなったらボクは悲しいから自殺しないでほしい」というのも、「ボクを悲しませないでくれ」ってことでしょ。これもエゴですね。(エゴが悪いと言ってるワケぢゃないので誤解なきよう)
ボクが例えば自殺したがっているとする。当然家族は止めると思うんですよ。悲しいってのもさることながら生活も困るし。だから、ボクは自殺しないと思うんですね。ボクは自分のために死なないんじゃなくて、自分以外のために死なないと思うんです。自殺したくなったことないからこれは想像だけれども。
「これが在るから俺は死ねないんだ」と思える何かを持つのは大事でしょうね。
>ボクは自分のために死なないんじゃなくて、自分以外のために死なない
自分以外のために死ぬ人もいるよなーと思いました。例えば、日本には切腹という文化があって、切腹は一種の自殺だと思うのですけど、中には「お家のために切腹する」武士もいたハズです。切腹には、「自分以外の何かを守るために死ぬ」という自己犠牲の精神が含まれると思います。(良い悪いの判断は別として)
何がいいたいかというと、自殺ってのはそれ自体が善悪なんじゃなくて、他者との関係において善悪なんじゃないかと。ボクはそう思うのです。
他者との関係において、という前提付きならば、多くの場合、「自殺は良くないこと」になると思います。なぜなら、自殺した本人はもう死んでいるので、当人は善悪を超えた世界に逝ってしまっているからです。残された人たちは、この世で善悪の判断をすることになります。
全く赤の他人だったら「死にたい人は自殺してもいいんだよ。でも自殺する時は独りでひっそり死んでね。巻き添えはイヤだから」って言わないまでも、実際はそう思うもの。それが正しいか間違っているかは別にしてね。自殺する人とボクの間に関係がないからそう思うわけ。これがさ、なんかしらの関係があったらやっぱり「やめてほしいなぁ」とかいろいろと思うんだろうと。
そうですね。
もし、自殺しようとしている人を目の前にした場合、その自殺希望者と初対面であったとしても、そこには既に自分との関係性(出会い)が発生しているから、「やめてほしいなぁ」という制止の方向に思いが湧く(or 動く)だろうと。
ボクは神様も仏様も信じていないから、天国も地獄もなく、転生することもなく死んだら何もなくなってしまうと思ってるんでそう考えるんでしょうね。でも、どうなんでしょうね。
死んだらどうなるか?は、死んでみなけりゃ分かりません。「あの世が見える」「霊と交信できる」と言う人は、半分死んでるんだと思います。
『汚れなき悪戯』という映画があるのだけれど、これを自殺という観点でみるとまた違った見方ができますよ。
「汚れなき悪戯」は未見です。TSUTAYAオンラインで検索してみましたが、レンタル化はされていないようです。(借りて観ようと思ったのに)