正義と羞恥心


悪について語るのは平気なのに、正義を語るのが恥ずかしいのはなんでだろう。

正義を語ることに恥ずかしさを覚えるのは、いったい何故か?

  • 正義を語る自分を見せることで周囲から「いい人」と思われたい、という欲望(自意識)を見透かされそうだから。
  • 正義とは、自分の内奧にある良心と悪意の両方に触れる思索であり、その思考過程を他人に見せるのは赤裸々でこっぱずかしいことだから。
  • 正義を名乗る資格のない自分が正義について語るのは、ちゃんちゃらおかしな話だから。
  • 正義のヒーローごっこは大人げないから。 オレはもう子供ぢゃないんだ。
  • 正義の2文字によって、SoftBank孫正義社長を思い浮かべてしまうから。

だから、正義は恥ずかしい。


集団圧力による正義が平気なのは、素っ裸の群集の真中に裸でいたって気にならなくなるのと同じなのでは。

正義という名の裸の集団パフォーマンスは、それが集団だから許される(とカンチガイしている)のであって、彼ら集団の外から見ると、それが正義であるかどうかさえ怪しくなる。
また、ネットイナゴの活動は、集団パフォーマンスと呼べるような芸術性などない。 素っ裸で叫んで騒いでいるだけだ。


しかも、下半身丸出しなのに覆面かぶっているんだから滑稽になってしまうのはしょうがないのではないかと。

名無しという覆面をかぶった裸のイナゴどもが「謝罪しろー、謝罪しろー」とうるさく鳴いても、うっとうしいだけだ。 彼らは、自分達が裸だということに気づいていない。*1

  • 正義を語る、ということは、自分をさらけだして裸になること。

だとすると、正義を語る時には羞恥心を感じるものなのかもしれない。 正義を語る際は、「自分は今、裸なのだ」という謙虚さが必要なのかもしれない。

やっぱり、正義を語るのは恥ずかしい。

*1:人は、集団になると退行して原始的な行動をとりやすい、という説がある。