正義を行う正義
正義の名のもとに行われる集団圧力は、不正義なものになりがち。 それは、なぜだろう?
- 正しいことが正義、善。
- 間違っている相手が悪。
- 多勢(みんな)の中に居る安心感。
- 正義に関与している自分が好き。
- みんなで悪をやっつけようぜ!
【善と悪】
善と悪について
- 善とは、相手を生かすこと、相手を認めること。
- 悪とは、相手を殺すこと、相手を否定すること。
正義の名のもとに行われる集団圧力によって、相手は抹殺される。
相手を全否定する行為は、悪である。 ここで、正義が悪に変わる。
正義は相対的なものだということが分からないから、正義は暴走し、悪に変わる。
正義は、簡単に悪に変化する怖いもの。
私はこういう人たちの根拠希薄な正義とか、一つうえのコメントと全く同じ内容の文章を恥ずかしげもなく堂々と書ける神経や、批判対象の本質を自分の目でみなくてだれかのフィルターを通して見たものを信じてしまう単純さや、自分の価値をあげることは他人を蔑むことだという卑しさとか、自分の行為が社会通念から見て恥ずかしいことなのかを考えないところとかを少しは見習うことによって、自分の中だけに溜まった言葉を発せられるようになっていけるのではと考えたりもしました。
正義を行う際は、常に苦悩が伴うものだと思う。 正義はまず最初に自分自身を否定し、自分の中の悪を昇華してから、自らの正義を問わねばならない。
自己否定のない正義は、本当の正義ではない「エセ正義」と言えるだろう。
- 自分に苦痛のない正義、相手を攻撃するだけの正義は、正義ではない。
- 独善的な正義は、真の正義ではない。
私のこのエントリも独善になってやしないだろうか?
正義について語るのは私には似合わないから以上。*1
*1:正義についてマジメに語る自分が、なんだか恥ずかしくなっちゃったのもある。 悪について語るのは平気なのに、正義を語るのが恥ずかしいのはなんでだろう。 (追記:takoponsの意味 - 正義と羞恥心)