ギロン議論

  • ギロン議論とは?

議論とは何か?を問うような、議論のための議論。または、議論のやり方についての議論のこと。(通称:メタ議論)
元々の議題がメタ議論なら問題ないが、例えば地球温暖化についての遣り取りを進める中で議論そのものの方法論に移行すると議論がヒートアップしてしまう。本論をスムースに進めるためのメタ議論であれば少しは脱線しても構わないとは思う。が、どこかでメタ議論を打ち切って本題に戻らないと地球が熱くなってしまうだろう。
なお、macskaさんと私との間で遣り取りしている「無神論」は思いっきり脱線中であり、当記事「ギロン議論」も脱線記事なのである。どこかでこのメタ議論を打ち切って本題に戻らないと神様がいなくなってしまうだろう。神はいるのかいないのか?は本題に戻るか戻らないか?にかかっている。←それ、言いすぎ。

  • とろさんへのお返事

続々・無神論のこと - takoponsの意味 はてなブックマーク



並べて書いてあるからと言って、同じ次元の否定的表現と捉えるのはどうかと。
http://d.hatena.ne.jp/takopons/20080417/1208379628
「死ね・殺す」と「アホ・バカ・マヌケ」と「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」、どれも相手からの敵意を感じ取る分かりやす表現ではあるが、一括してるわけではないと。 

「死ね・殺す」「アホ・バカ・マヌケ」「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」等の否定的な表現は、それらが否定であるが故に「敵意」として読み手に受け取られてしまいがちな表現です。しかし、否定のレベルは違うので一括しているつもりはありません。また、人によって否定レベルの分類も異なるでしょうし、一個人の中でも日時や相手によって分類のしきい値が変動することもあると思います。例えば、Aさんから「死ね」と言われても平気だけど、Bさんから「アホ」と言われたら許せない、とか。




能力批判は人格攻撃ではない、というのは一応同意します。
しかし「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」から相手の敵意を感じると。

能力批判に敵意を感じることもあれば感じないこともある。ただ、どちらかと言えば敵意を感じて「敵意アリ」と解釈されてしまいがちな表現だと思います。敵意のない可能性も少しはあるでしょう。
私は記事本文で↓↓↓


明確に存在するかどうか定かではない敵意――質問者の心の中に本当に発生したのかどうか分からない敵意――を感じ取って、「修辞的疑問だ不誠実だ」と指摘していたら、議論は一向に進みません。質問者の心の中に発生した(かもしれない)敵意を過敏に感じ取って、敵意のタネを自分の中で大きく育てて「敵意だ不誠実だ失礼だ」と相手を非難するのは過剰反応だと思います。
一方、文章中に「死ね・殺す」「アホ・バカ・マヌケ」「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」等の分かりやすい表現(否定的表現)が用いられているのなら、相手から敵意を感じ取るのはたやすいことでしょう。(敵意のない可能性も若干残っているとは思いますが)
↑↑↑と書きました。

他人の言葉から敵意を感じやすいナイーブな人は、疑問を表すクエスチョンマーク「?」の記号1つからですら敵意を感じてしまいます。発言者に敵意がなくても、です。発言者側ではなく、疑問「?」を受け取った人の心の中に敵意が芽生えるのです。そんな過敏な人に対しては、単なる事実確認のために用いた「?」記号でさえ、「敵意だ攻撃だ謝罪しろ」とバリアーを張られてしまう。そんなハリネズミみたいな相手と遣り取りするのはハッキリ言って面倒くさいです。




仮に、議論を何でもアリのバーリトゥードだとすると、「死ね・殺す」「アホ・バカ・マヌケ」「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」も全部アリだと思います。
それ言っちゃ、なんでもありだろと。そりゃ、友好的な表現ではないね。

「死ね・殺す」「アホ・バカ・マヌケ」「能力の問題・表現が下手・論理に弱い」は、友好的な表現ではありません。(もしも、とろさんが「いや、能力批判は友好的な表現だ」と言われるのであれば、それはそれで構いません。もちろん、とろさんは「能力批判は友好的な表現だ」とは言っておられません。)
議論の定義を、相互理解のための対話ではなく、「意見と意見のぶつかり合い」と仮定するならば、賛同以外の意見は攻撃になると思います。議論を論争と捉えると「?」記号も攻撃と解釈することができます。議論の定義を相互理解とするか論争とするかは別として、意見を受けてそれが納得できるものであれば素直に納得すれば良いし、納得できなかったら反論なり質問なりすれば良いと思います。無言でスルーするのもアリでしょう。



すると、リンク先で展開してる区分では、能力批判は何に当たるのかな。敵意を感じるなら「罵倒」以下の何かに分類されるんだよね?

私が「能力批判には確実に敵意が存在する」と、どこかで断定・断言してますか?



ネガコメすべてに敵意を感じて、すべての真意をたださないと気が済まないなら別だけど、言葉通りに「批判」に分類するなら、ぎりでNGワードじゃないんだから、とりたてて疑問にせずに本題で反論すればいいんじゃないかと。

「本題で反論すればいい」というのは、その通りです。さもないと、この記事のように脱線してしまいますからね。
ただ、私は、「相手はなぜ、私の能力批判をしたのか?」に興味が湧いたのです。だからmacskaさんに質問しました。

  1. 今後は、そのような質問は修辞的疑問とみなされることに注意を払って文章を書いてください
  2. 修辞的疑問は、一見丁寧な表現のなかに敵意や恣意的な断定を潜り込ませることができる強力なレトリックなので、そういう意図がないのであれば誤読されないように注意するべきではないですか。(修辞的疑問)

と、修辞的疑問を用いることへの注意を促すmacskaさんが、ご自分の↓

  1. まぁ、もしかしたら不誠実なのではなく、ただ単にあなたの能力の問題でまともに議論に応じられないだけという可能性もありますが。
  2. ただ単にあなたが表現が下手あるいは論理に弱いために、意図せず「修辞的疑問にしか読めない質問」をあなたが書いてしまった可能性です。

↑という言葉の中に敵意を潜り込ませてやしないか?と思ったのです(可能性として)。敵意が無いなら無いで良いのですが、「なぜ能力批判をしたのだろう?」と疑問に感じたのです。
そして、他人の質問を修辞的疑問と解釈して「不誠実だ失礼だ」と言うmacskaさん自身の発言内容はどーなのよ?と。




しかし、もし、「能力批判はOK。その能力批判に対する疑問はNG」とするならば、一方にだけ有利なルールと言えるのでは?
すみません、片方にだけ有利になる理由がわからない・・・。
能力批判することで、議論を傍聴してる人たちに、相手が弱いという印象を与え(傍聴者の中での)判定を不利にすることになるから?

傍観者への印象操作もあるかもしれませんが、理由は少し違っていて、例えば、A氏とB氏が議論していて、

A:目玉焼きには、しょうゆだろ?
B:そのソースはどこ? まあしかし、ソースの味も分からないとは、Aの味覚は問題アリだな。
A:もしかして俺の味覚を疑っているのか?
B:能力批判に対する疑問はNG。よって、ソース派の俺の勝ち。
A:ちょっと待て。何だそのルール?
B:とろルールを知らないのか? 「能力批判はOK。その能力批判に対する疑問はNG」なんだよ。だから禁じ手を使ったAの負け。
A:そんなルールがあるなんて知らなかった。
B:ふふふ。Aは本題で反論すべきだったのに、能力批判に反応してしまって負けたのだ。
A:うおー!全然負けた気がしないけど、なんだか悔しいぜ!

↑この遣り取り、何か変だと思いませんか?

Aの味覚(能力)に疑いを持ったのはBが先なのに、Aからの「能力批判に対する疑問」だけをNGとするのはフェアぢゃないですよね?

で、takoponsの能力「議論能力,表現能力,論理能力」に問題がある(能力が低い)可能性があると言って私の能力に疑いを持ったmacskaさんのほうではなく、その能力批判に対して質問した私のほうに「とりたてて疑問にせずに本題で反論すればいい」と言うのは何故ですか? 本題で反論していないのはmacskaさんも同じなのでは?