理屈のこと

タコ壺 | 伝わる意志のない言葉のカタマリを考える はてなブックマーク


コリクツで固められた文章というのは、所詮自分を守る方にしか力が注がれていないものが多いためか、他人が読んでも頭に入らない。つまり何も伝わらない。伝わってない文章が他者を動かせるわけがない。動いたとしたら、それは言葉で動いたのではなく、外見上だけ言葉のフリをした不愉快な行為が動かしたもの。

コリクツで固められた文章を読んだ人が不愉快な気分になって動いたのであれば、コリクツが他者を動かしたことになるのでは? 拒絶も行為の1つですから。



エントリーがコリクツで、コメントもコリクツで、というブログをたまに見かける。そのやりとりがコリクツ遊びといってしまえばそれまでだが、他人と対話する意志のない他人同士の言葉のやりとりに、遊びという要素を、あたしは一切感じない。まったく興味ない。

他人との対話には、共感や賛成・同意だけぢゃなく、反感や異論・反論も含まれます。タコさんは、「対話=賛同」または「対話=遊び」とお考えなのですか? 異論・反論は対話ではないと?
また、コリクツを発した人間は他人と対話する意思がない、とナゼ分かるのですか? タコさんは文章(コリクツ)から他人の意識を読み取る超能力者(エスパー)ですか?
他人(コリクツ者)と対話する意思が無いのは、実はコリクツを言われた側(タコさん)なのでは?



また、当たり前のことだが、理屈を並べることと理性はイコールではない。よって、理屈を並べることの反対に感情的になることがあるわけではない。理屈を並べて感情的に振る舞う人間のいかに多いことか。そりゃそうだ。理屈なんてのは、自分を合理化するための手段に過ぎないのだから。

理屈は、説得力を上げるための手段です。説得する相手(対象)は、自分だったり他人だったりします。もし、理屈を使わずに相手を説得できるのなら、理屈は不要です。しかし、理屈を伴わない説得によって納得してしまうのは危険なことだと私は思います。



言葉なんてもんは上手く使えば、きっと強力な武器にも薬にも何にでもなるのだろうと思う。

言葉は、「言葉なんてもんは」と軽々しく扱うものではなく、「上手く使えば、きっと強力な武器にも薬にも何にでもなる」危険なものです。タコさんは言葉に無頓着な方なのですか?


タコ壺 | “ひゃー権”を強引に守る会 はてなブックマーク


感情を機動力に言葉を吐く場合ですら、せめて何を言ったかくらいは自覚した方がいい。吐いた後でもいいから、自分が吐いた言葉が何をもたらしたか、どう伝わる可能性があるかを想像して、ちょっとだけでも客観視するなりした方がいい。

↑ここを読むと、タコさんは自分が何を言ったのかを自覚して、どう伝わる可能性があるかを想像する程度には、言葉に注意したほうが良い、とお考えのようですが。>言葉に無頓着?



よく「言葉は道具だ」といわれるが、本当にそれ以下でもそれ以上でもないと思う。

私は、「言葉は単なる道具ではない。言葉にはコミュニケーション・ツールを超えた何かがある」と思ってます。その何かとは、神が「光あれ」と云って光が生まれたことに通じる創造と破壊です。