人間の精神は法に縛られない

2008年4月22日、光市母子殺害事件の判決が出た。直後に弁護団の上告などもあって、まだ確定はしていないが、このまま進めば死刑執行は時間の問題だろう。

今回の判決は妥当だと思う。思うが、しかし、この判決を受けた結果、凶悪な少年犯罪は本当に減るのだろうか?

逆に増えるんぢゃないか?
「俺を死刑にしてくれ」「自分ぢゃ死ねないから、誰か俺を合法的に殺してくれ」と考えている少年にとって、今回の判決は朗報に映るのではないだろうか?「永山判決では4人殺害だったけれど、光市判決は2人で死刑となった。ぢゃあ2人でいいんだ」と、短絡的に見てしまう少年がいるのではないか。

2007年8月に起きた名古屋市の拉致・殺害・遺棄事件の犯人は、「死刑が怖いから」という理由で自首してきた。人を殺しておいて身勝手な言い分だとは思うが、もし日本に死刑制度がなかったらこの犯人は自首しなかったかもしれない。この犯人達は少年ではなかったけれども、彼らに対して死刑制度の効果はあったワケだ。

しかし、「俺は死刑は怖くない」「俺を死刑にしてくれ」と考えている人間にとって、死刑制度は無意味であり、死刑を恐れない人間に対して「厳罰化」は逆効果かもしれない。

  • 厳罰化の有効範囲

死を恐れない人間、積極的に死にたい(でも自殺できない)人間を前にした時、司法は無力なのではないか?死刑を望む者にとって、「厳罰化」は死への近道にはなれど、ストッパーにはならないのではないか?

  1. 死刑制度は、死を恐れる者には効力がある。犯罪を防止するチカラや自首させるチカラになるだろう。
  2. 厳罰化は、死を恐れない者には効果がないかもしれない。厳罰化は、二重の意味で「死を望む者」に歓迎されるかもしれない。厳罰化は逆に、凶悪犯罪の促進力になってしまうのではないだろうか?
  3. 厳罰化をさらに進めて、死以上の極刑を設けるのもテかもしれない。死刑よりも重くて厳しい刑罰って、すぐには思いつかないけれど。んー、あ、1コ思いついた!でも書けない。想像したら吐き気がしてきた。
  • 北風と太陽

死を恐れない人間や積極的に死にたい(でも自殺できない)人間にとっては、

  1. 殺人が悪いか悪くないか、は問題ではない。殺人=悪という認識はじゅうぶん持っているハズだ。
  2. 死が怖いか怖くないか、も問題ではない。死=恐怖の感情よりも、生=絶望の感覚のほうが強いハズだ。
  3. 生きていて楽しいかどうか?が問題なのかも。生きることへの絶望感や閉塞感をどう解消させるか?が問われているのかもしれない。

生きる希望。それは、司法の扱う領域ぢゃないよね?
宗教とか文化・芸術の領域、あるいは経済の問題だよね?

とりあえず、猫でも見て→続・ぼけねこボケ←なごみなよ。

  • 飼い慣らすべき精神という名の野獣

人を殺したら罪に問われまーす。
知ってましたか?
知ってまーす。
ぢゃあなんで殺したの?
感情が論理を殺したからです。
衝動が理性を殺したからです。
絶望が希望を殺したからです。
精神は法に縛られないからです。
誰が野獣(こころ)に鈴を付けるのか?国家か?教祖か?通帳か?家族か?それとも、自分自身か?


(追記 2008/04/24 11:00)


[釣堀]さーてどんなコメがつくやら愉しみ愉しみ/基本「これはこれそれはそれ」「論点ずらし」だろうか/社会復帰に絶望したものが更正できるだろうか、そして社会復帰が可能なものは更正は不要としか考えないだろう

釣りではありません。人間の生き死にに関わる犯罪の問題を扱うのに釣りとか愉しみとか、私には言えません。

>社会復帰に絶望したものが更正できるだろうか

「社会復帰に絶望したもの」とは、犯罪者または逮捕歴のある者、または潜在的犯罪予備軍(人生に絶望を感じて自暴自棄になっている人)のことでしょうか?

>そして社会復帰が可能なものは更正は不要としか考えないだろう

社会復帰が可能だと判断されたからこそ、量刑に見合った更正が必要なのでは?

(追記おわり)