反応のある方に傾きたくなる衝動を抑えられるか?

読み方も自由なら、書き方だって自由だよね。

  1. ある記事を読んで「それはダメだ!」と言う。OKです。
  2. ある記事を読んで「面白かったです」と言う。OKです。
  3. ある記事を読んで、無言で立ち去る無反応。OKです。

何かを表現する人は、1と2の反応を見ながら次の表現を考える。
ある人は、反応の有無に関わらず、自分の言いたいことを書く。

しかし、

  • 人は流されやすいもの

だから、つい反応のある方へ、反応の生じやすい方向へと向かいがち。
反応を求めるのは悪いことぢゃない。
良くないのは、言いたいことを我慢して反応だけを求めること。
例えば、はてなブックマークは反応が目に見えて分かりやすいので、ブックマーカーの反応しそうな記事を書きたくなってしまうことがある。
もちろん、それが「自分の書きたいこと」なら良いだろう。
でも、本当にそれでいいの?

  • 「面白い」「つまらない」という反応


ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。

確かに、"Good!" の共感に比べると "No Good." の反感のほうが多いような気がする。自分自身にも当てはまると思うし。この辺の感覚って、国民栄誉賞を死人に与えるのはどうなのか?とか、どんな偉人でも生きてるウチに重大なミスを犯すかもしれないので死んでから与えれば間違いはない、とかいう変な慎重論に基づいているのかもね?
あとは、「同意」とだけ書くのは相手に失礼なんぢゃないか?と遠慮して黙ってる読者がいて、一方で、「それは違う!」と乗り込んでくる読者は目に見えるから、敵が多いなーと感じたブロガーは凹む。結局、心の中だけで共感している読者も、反論者を助長するのに一役買っていることになる。ぢゃあ、どうすりゃいいの?それは読者が考える話。

  • 沈黙が破られる時

それまで黙って読んでくれていた読者が突然、「おもんない」と言い出した時は要注意だ。継続して黙々と読んでくれていた人から「興味ない」と言われること、それはターニング・ポイントを意味する。
その読者に合わせて「読者の興味を引きそうな記事を書く」か、読者を切り捨てて「自分が今言いたいことを書く」か。
これは比率・配分の話でもある。読者優先か、自分優先か。昨日は読者の好きそうな記事を書いたから、今日は自分の言いたいことを書くぜ!そーゆー器用なことができる人はやればいい。
takoponsは器用ぢゃないので、自分の言いたいことを書く。理解してもらえないかもしれないけれど。



どうだついて来られまいワハハ!って振り返ると誰もいない、寂しさ。
しかし世の中は広いモノで、「こんなの他人には理解できまい!」というような趣味や嗜好でも、案外理解してくれる人が居たりもするものです。確かに読者の絶対数は減るかも知れませんが、その代わりとびきり熱心な読者が出現するかも知れません。「誰もいない」と感じるのは単に読者からの反応が可視化されていないだけかも知れません。

あなたは反応のなさに耐えられるか?村八分に動じないでいられるか?
ブログ八分耐久ロードレース「ブログ8耐」に生き残れるか?
過酷なレースは、すでに始まっている。