期待に応えなきゃ
- テレビの期待に応えなければならない症候群
事件報道で、容疑者の友人・知人や周辺住民へのインタビューに対する返答が「まさかあの人が・・・」なのはナゼか?問題。
どうなんだろう。TVを見てるほうが「まさかあの人が…」って答えを要求してるから、「いっやー、やりそうだと思ってましたよ!」って発言はカットされてるのかな? それとも本当に近所の人は「まさか…」しか言わないんだろうか。
私も気になってました。
- インタビューを受ける人はテレビ的な受け答えのパターンが身に付いていて、「こういう事件の時、こう聞かれたら、ああ答えればいい」と、テレビのお作法を理解している。
- 番組プロデューサの台本があり、そのシナリオに沿わない発言部分がカットされている。 どんなに鋭い・穿った意見でも、局側の意に反していれば捨てられる。
- 視聴者は、「自分もテレビに出てみたい」と思っていて、自身のコメント映像を放送してもらうためには世間に受けの良い発言をすべきだ、と考えている。
- 本当に考えるべきは、「自分はどう思うか?」であって、模範解答ではない。
- でも、模範解答は得意だし、それでテレビに出られるのなら、「まさかあの人が…とても優しい、いい人だったのに…」と答えるだろう。
ブラウン管の向こう(最近は液晶かプラズマか)に居る人々にできるだけ多く同意してもらうためには、どうすればいいか?
テレビの期待に応えなきゃ
上司の期待に応えなきゃ
家族の期待に応えなきゃ
自分の期待に応えなきゃ
ブログにコメントしてくれた人の期待に応えなきゃ
- 期待されるのは良いことだけど
期待されるのは、「自分が必要とされている」ということなので、その期待に応えるべく人はがんばる。 必要とされる自分であるために、一生懸命がんばる、がんばる、がんばる。
がんばりすぎて体調を崩し、過度のプレッシャーに気を病んで、おかしくなる。 何かが狂ってゆく。 蝕まれてゆく心と体。 不安に苛まれ、変容する世界観。
「誰でもいいから殺してやる!」
そして事件は起きる。
ご近所さんがテレビの取材に応えて言う。
「まさかあの人が…とてもマジメで、いい人だったのに…」
- 参考
世界って、自分が生まれる前も、自分無しで回っていましたよね。従って「自分は必要とされていない」というのが自明の理です、特に社会にとっては。「仕事」とは、「社会にとって自分が必要とされるために、無理矢理潜り込む作業」だと思うんです。初期状態が「必要とされていない」ので、努力をしないと社会に居場所を確保できない──というのが僕の仕事観です。