強い書き手と弱い書き手

電信柱:強い書き手、弱い書き手

以前読んだこの記事↑を再び読み返す。

自分の書いた記事との距離感、自らの文章に心の距離を置いて接することができるかどうかの違いが、書き手の強さ(弱さ)に表れる、という主旨と読んだ。

そして今回、気になったのはコチラ↓

【アナトー・シキソのヴェクサシオン】:強い書き手、弱い書き手(補足と私信)


もっと突っ込んで言えば、それは、「そもそも表現とは何か?」っていう話になる。ついでだから言ってみると、「表現」はどんなに内発的に思えても、現実は「世界からの吸い出し」に他ならない。つまり、「表現」が内側から「自然に吹き出す」のは、「世界」がそれを「吸引」しているからだ。なんだかオカルトめいてきたけど、そんな話じゃない。「表現」は必ず「世界」の存在を前提にしているってことだ。

人間の表現活動や芸術衝動の発端は、「何かを言いたい!表現したい!!」という強い気持ちの表れである。 そして、人間の心の奥底にあるトリガーを刺激しているのは誰か、と。
ここで、筆者のアナトーさんは、それは「世界」だと書いておられる。

で、私の勝手ながらオカルトちっくに話を進めると、表現の吸引を促しているのは、「世界」の中にいるアーリマンやルシファー、天使達なのではないだろうか?
利己主義の蔓延る現代社会においては、物質の霊:アーリマンと欲望の悪魔:ルシファーのチカラが強すぎて、天使達は手が出せない。 いや、天使達からの働きかけは絶えず行われているのだけど、物欲に支配された人間の心に届かないだけなのかもしれない。

(悪い意味での)目に見えない活動の積み重ねの結果、信じられないような重大事件が現実に起こり具現化する。*1

人間は「世界」に影響を与え、やがて「世界」からの反響を受ける。

書き手は「人間」に影響を与え、やがて「人間」からの反応を受ける。

直接的な反応を受けることはないかもしれないが、何らかの影響を与えている。

さて、私は強い書き手なのだろうか? それとも弱い書き手なのだろうか? かと言って、他人がそれを決めることでもない気がする。 うーむ、まあ、こうして悩んでいるウチは弱い書き手なんだろうね、きっと。

文章を書くことの意味について、独り考えるクリスマス・イヴ。
♪シングルベール、シングルベール……

*1:すべては悪霊の仕業だから人間は一切悪くない、というのは違う。 責任の所在は、人間にある。